アニメ作品の物語パターンの踏襲

最近、「小公女セーラ」を観ている。1985年日本アニメーション制作のこのアニメ、日本アニメーション制作といえば「コナン」「ハイジ」「ラスカル」あたりが有名だろうけれど、このアニメから感じる負のエネルギーがそれはもう物凄く、気分が落ち込んだ時に視聴しようものならどん底に叩き落されること請け合いである。あらすじを説明すると、1855年、インドから父と共にイギリスにやってきたセーラが学院で特別生徒としての威光を「纏わされて」周りから祭り上げられるが、父のインドでの事業失敗からの死というダブルパンチにより財産どころか身寄りすら失い毎日朝5時-夜12時というワタミもびっくりのブラック労働を強いられるというものである。しかもポカをやらかしたら食事抜きという徹底ぶりである。(まだ途中なので結末は知らない)

時代が産業革命真っ只中ということもあって(そのことを象徴するかのように機関車が走り抜けるカットが随時登場する)、日銭の当てすらなく乞食のごとき生活を送っている子供は珍しいものではなかったのだろう、「食事にありつけるんだから文句は言わせずこき使っても構わない」というイデオロギーから発生した労働条件の過酷さでもって、セーラと元からいたベッティの二人が徹底的にイジメられる話が延々と続くというものである。二人の周りには基本的悪い人しかおらず、人格者の出番はごくごく稀なものとなっている。「セーラに救いはあるのか」という疑問のみが現在の視聴モチベーションであると断言してもいいだろう。

さて本題。ここ数年のアニメで、「シリアスな場面」と聞いて想起する場面は、おおよそ
以下に挙げたものだろう。
・人格が豹変する(味方が敵になる)
・大切な人が死ぬ(行方不明になる)
・考えがすれ違い喧嘩する
・脱出困難な閉鎖環境におかれる(洞窟とか)

これらのシリアスは「平和な日常」と対比されて描かれるパターンが圧倒的に多い。「日常系アニメ」はこの「平和な日常」の比率が高い。しかし全部ではなく、1クールに1話くらい、必ずこういったシリアスを挿入したがる癖がある。そういった回は「神回」と評されることだろう。何故ならキャラクターの内面に迫るにはキャラクターを非日常に追い込むのが一番だからだ。そこであらかじめ設定されていた内面のパワーを活かし、日常を取り戻したというカタルシスが心に響くのである。結衣の「お前がくれる『楽しい』が好きなんだよ…!!」とかね。

最近、この「日常→シリアス→日常を取り戻す」というパターンが、日常系アニメに限らず、ほとんどのアニメ作品に当てはまっているのではないか。どんなに新しい作品を出してきても、このパターンから大きく逸れることが出来ないでいるのではないか、と感じている。いわゆる閉鎖空間ってやつだ。

まどか☆マギカ」ですら、このパターンを踏襲しつつこねくり回していた。「まどかの日常→QBの登場と魔法少女の真実、過酷な運命に巻き込まれる魔法少女たち→アルティメットまどかがすべての魔法少女を生まれる前に消し去ることで救う」という具合である。

よく言われる「物語がしっかりしている」「物語が薄っぺらい」という漠然とした評は、全てこのパターンに則った上で心に響いたか、俺の心を震わせた場面があったどうかをなんとか言葉にした印象がある。どこが琴線に触れるかは人によるだろう。
ガンダムAGE」は薄っぺらいと言われるが、それはフリットやアセムを勝利=終戦=日常を取り戻す、へ突き動かすものが「唐突な『大切な人の死』による恨みでしかない」からである。守れてない。守れなかったけど、殺した方が悪いからと脊髄反射しているだけだからなんだろう。

ここを薄っぺらいと感じさせないための方法は一つしかない。「ひたすら日常を積み重ねる」ことだ。AGEはそのための時間が圧倒的に足りていないように思う。「トップをねらえ!」はそこを相対性理論で省略していきなり斜陽的に、ノスタルジックに描いていたがあれは並大抵のことじゃないな、と今になって思う。なかなか真似のできるものではない。一方、CLANNADはひたすら積み重ねて涙を誘った。リトバスも日常を積み重ねていくことになるだろう。

ともあれ、このパターンをしっかり踏んでいったアニメが高い評価を得ている傾向を漠然と感じる。ここらへんはまだまだ検証が必要だろう。GAはこのパターンじゃ説明出来ない面白さがあるから。あれなんで面白いんだ。